小沼純一(音楽・文化批評家・詩人。早稲田大学文学学術院教授)

映像の力は、異なるものどうしを結びつける力である。撮る者と撮られる者だけではなく、撮る者どうし、撮られる者どうしも結びつける。そして、見る者と見られる者だけではなく、見る者どうし、見られる者どうしも結びつける。結びつける力は両者を同化する力ではなく、むしろ出会わせておいて、両者の差異を際だたせる力である。−−−分藤大翼「結びつける力」

『フィールド映像術』(分藤大翼・川瀬慈・村尾静二編、古今書院)は、全15巻からなる「100万人のフィールドワーカーシリーズ」の1冊(2014年末時点では既刊4冊)。
さまざまな「フィールドワーク」がおこなわれているし、大学などの教育機関にいるうちは身近にみる機会もないわけではないけれど、実社会にでると意外にピンと来なくなってしまう人も多い。しかもある一定の年齢以上だとそうしたことがおこなわれていたり、ことばがあることもよく知らなかったりする。現にこのなかの執筆者は14名におよぶが、一番上で1968年生まれ、ほとんどは70年代生まれと若い(女性が田邊優貴子1人なのが残念だが)。

全体は4つの部分に分かれる。ベイトソン、レヴィ=ストロースにおけるフィールドでの写真の言い、ジャン・ルーシュ、ブルーノ・ラトゥールなどのフィルムについてなど前提となる事例が「理論編」として提示されるPartI。「フィールドと映像のさまざまなかたち」と副題にあるPartII「制作編」。ここでは動物や植物、音楽・芸能についての個別事例が記される。PartIII「応用編—映像によるかかわりの創出」では、ただ記録し研究するのみならず、その先をどうするかという実践的な試みが紹介される。最後PartIVにおかれているのは「映像が切り拓くフィールドワークの未来」という座談会

冒頭に引いた分藤大翼は、おなじ文章のなかで、失敗することの意味、そこで得られることをも自らの体験に即して語っている。そもそも冒頭にその「失敗」がでてくるのだ。「罵られている、ということはわかった。正直なところ、それしかわからなかった。すましていれば美人だと思わせるその人は、綺麗な二重の目を見開いて、大声でまくし立てていた。」と(成功談を自慢する人より失敗談を語れる人のほうが信用できるし、本人も多くのものを得ているように感じられるのはわたしの判官贔屓?)。
本書のような論集であっても、こうした「つかみ」は重要だ。このすこし前に小林直明「観客に届く映像作品をつくるには?」というのがあって、こちらはこんなふうに始まっている−−「学術的な映像作品にエンターテインメント性は必要か?さて、あなたはどう考えるだろうか。世界を震撼させた映画「ゆきゆきて、神軍」の作者であるドキュメンタリーの鬼才・原一男監督の意見は、明快である。「たとえ学術的な狙いであったとしても、やはりエンターテインメントでなければ人は見てくれないです。見てもらえなければ意味がないですよね。」」
内容がすばらしければ、という見解はアカデミックな場においては多い。それも確かだろうし、書き手の資質というのもある。ダイレクトに伝えるべきものこそが重要だと考える分野があるし、そうでない分野がある。

私はこれらの集団(引用者註:エチオピアのアズマリ、ラリベロッチという音楽の職能集団をさす)とともに行動し暮らすなかで、いままで自分がやってきた自由な表現や創造としての音楽とはまったく異なる音楽のありかたを目のあたりにする。(中略)フィールドワークを重ねるなかで、これらの集団を、アーティストとしてのミュージシャンと同じ地平で論じることはできないということに否応なく気づかされ、自らが培ってきた「音楽」を相対化することの必要性について考えさせられた。−−−川瀬慈「音楽・芸能を対照とした民族誌映画の制作と公開をめぐって」)

川瀬慈は、ご存知の方も多かろうけれども、「スコラ 坂本龍一音楽の学校」のアフリカ音楽編に出演していただいた方である。ここで氏は自らのエチオピアとのかかわりについてひじょうに率直に語っていて、TVやCDブックではわからなかった個人的な思考やバックグラウンドをみることができる。そして、先に引いた分藤大翼も、おなじく番組とCDブックにご参加いただいている。

ほかにわたしが個人的に興味を持ったものを2つ引く。
座間耕一郎「霊長類のフィールドワークと映像の活用法」。
この末尾はこんな文章がある−−−「ある画角の「色」と「音」だけを機会任せで撮影するのは、フィールドでさまざまな感覚をつかって感じることのできる機会を失うことでもある。映像はあくまでフィールドワークのひとつの記録媒体にすぎない、ということを心に留めておく必要がある。言い換えれば、それくらい、映像には説得力があり、圧倒的な魅力があるのだ。」
ここで想いだしたのは「9.11」のこと。あのWTCが崩れ落ちる映像は、やはり映像であり、映像でしかなかった、という事実だ。あそこでどんな音がしていたか、どんなにおいがしていたか、粉塵がどうだったか、わからない、わからなかった……。

家庭で撮影された8ミリフィルムを「収集・公開・保存・活用」することについての松本篤「メディアに還っていく」。
「これらのフィールドに分け入って行くなかで、私は常々こんなことを考えている。今ここにいる「私」と、時間や空間を異にするどこかの「私」とのあいだにある隔たりに、どんな意味があるのだろうか。また、その隔たりに対してイメージはどのような効果を発揮するのか。」
「「他人の子ども見て、何がおもしろいねん!?」。フィルム所有者は、鑑賞会が始まるまで、自分の提供した映像が鑑賞会にどのような効能をもたらすのかまったく知らない。所有者は自分が記録した映像に潜在する価値について、他者が介在することによって初めて事後的に気づいていくのだ。」
古くからの友人が「3.11」によって倒壊したり流されたりして傷ついた写真を修復する作業をつづけていて、それは記憶のこと、つながりのこと、などなどいろいろなことに関係する。写真ほど長い歳月を持っているわけではないし、ある特定の時期と限定されるかもしれない8ミリであっても、こうしたかたちで「鑑賞」され、ことばが交わされることで生まれることについて示唆してくるものがある。