2018年5月26日「野(フィールド)の遊びと学び」(FENICSサロン「世界を変える教育Ⅱ」)イベントレポート
宮本道人

 2018年5月26日、武蔵小金井にて、「野(フィールド)の遊びと学び」(FENICSサロン「世界を変える教育Ⅱ」)というイベントが開催された。主催はFENICS×変人類学研究所で、二つの研究者団体による合同イベントである。
 最初に、変人類学研究所所長の小西公大さんから挨拶があった。「学びと遊びが切り離されていっている現代において、それをもう一度組み合わせよう。特に座学ではなく、フィールドに出て遊び、学ぼうというのがフィールドワーク」というようなお話であった。
 次に、FENICS代表の椎野若菜さんから挨拶があった。「フィールドワーカーは、自分から進んで学んでいこうというアクティブな能動性を共有している。でも、分野が違うと見方が違うので、お互いそこを事例から学ぼうという考えをもってFENICSでイベントを開催している」とのこと。

帝京平成大学の小森次郎さん「泥遊び・石遊びで学ぶ地域と自然」

 挨拶が終わって、いよいよ講演が始まった。最初の話者は、地学・自然地理学の研究者である帝京平成大学の小森次郎さん。
 小森次郎さんは学部では中国語と統計学(=麻雀)に明け暮れながら、雲仙普賢岳の噴火調査を行っていて、その後地質調査会社や私大の職員を経た後、30歳から大学院で学び直したそうだ。その後JICA職員になり、ブータンヒマラヤにおける氷河期決壊洪水に関する研究を行い、現在のような研究者になったという。小森さんの研究や学術実践の範囲は幅広く、富士山の雪崩や落石の発生状況の調査から、福島浜通りのスタディーツアーの開催など、多方面で活躍されている。
 そのなかの一つが今日のテーマ「泥遊び・石遊びで学ぶ地域と自然」である。小森さんはあるとき、子供たちと一緒に多摩川で石を集めると、彼らが種類ごとに石を拾って楽しんでいることに気付いた。そのことと、子供向けのサイエンスイベントで、人力ボーリングで地面を掘って地質を見ることをやっているうちに、岩絵の具作りを教育に取り入れるというアイデアが思い浮かんだという。実は地学教育が苦手な教員は多いらしく、外に出てなにかをするハードルも学校としてなかなか高くなってしまい、生徒も学年が上がるにつれ地学を嫌いに感じてしまってゆくそうだ。
 そこで小森さんは、石という多くの子供が好きな題材を選び、地元で採集できるものを利用することで、みんなが楽しく学べるようにした。石や土は砕いてふるってすりつぶしてペーストにすれば、絵が描ける。石の選び方にも工夫がある。様々な石を使うことで色のバリエーションを出すようにしたり、化石や貝殻などそれ自体面白い石を使ってみたり、石と絵の具で色が少し変わるような石をチョイスしたり、構成にはこだわった。ワークシートでは工程を4コマ漫画にして子供自身に描いてもらい、楽しく理解できるようにした。
 子供は意外な感想を持つもので、終了後にアンケートを取ると、「不純物をピンセットで取り除くのが面白かった」とか予想外の答えが返ってきたそうだ。人力ボーリングの体験授業でも、子供は掘り出した泥を使って自主的に泥団子を作り始め、深いところから掘り出した泥のほうが団子を作りやすいことに気付いた。これは泥の中の含水率と対応している。
 筆者の印象に残ったのは、小森さんが講演の最後に、これらの意義を話されていたときの言葉である。子供は「7万年という時間を自ら手に入れる」経験をするのだ!

 第二の講演は、早稲田大学の文化人類学者・二文字屋脩さんで、「遊=育のすゝめ:ポスト遊動狩猟採集民ムラブリにみる遊びと教育」というタイトルでの発表であった。
 二文字屋さんは、ムラブリというタイ北部地域に暮らす少数民族と、日本・名古屋市のホームレスの研究をされている。大学生のときにホームレスと一緒に暮らしていて、今も段ボールで一泊する体験型の授業をしようと画策しているそうだ。
 発表タイトルに付けられた「遊=育」の意味は、「遊ばせながら」「育てる」ではなく、「遊びながら」「(勝手に)育つ」ということ。ムラブリはそのように子供と接している。ムラブリは食糧生産経済ではなく、食糧奪取経済で、地域の食糧を採り尽くしたら遊動するという暮らしを送ってきた人びとである。このような狩猟採集民の社会文化的な特質は、平等主義であったり個人主義であったりすることが知られている。開発の名の下に、現在は脱狩猟採集民化して村での定住生活を送っているが、そんなムラブリの子どもたちの遊びを、二文字さんは紹介してくれた。
 紹介は、カメルーンのとある民族の遊びを研究した文化人類学者の亀井伸孝さんの分類に基づいて行われた。以下に、例を書き写してみる。
・狩猟採集活動に関わる遊び:木登り。やり投げを模した遊び。
・衣食住・家事・道具に関わる遊び:バナナの葉っぱを絨毯や屋根の代わりにして大人たちの会話の真似をする。
・近代的事物に関わる遊び:落ちているバナナの葉っぱをお尻に敷いて坂道をすべる。バナナの葉っぱを銃に見立てる。タイヤを転がす。
・ルールの確立した遊び:石でのおはじき。陣取りゲーム。セパタクロー。
・身体とその動きを楽しむ遊び:みんなでお互いに髪についたのみを取るような動きをする。
・その他:ブランコ。水遊び。
 ムラブリの子どもたちの遊びの大きな特徴は、人数・年齢・性別・場所の非制限性であり、排他性がほとんどない。どのような形でも参与可能なのだ。遊びを通じて、子どもたちの狩猟採集民の特徴が育まれていく。こういった遊びを通じた学びを可能にしているのは、大人たちの放任主義だと二文字屋さんは言う。大人は毒があるかないかを教える程度である。いつ何が取れるか分からないギャンブル性のある生活を言葉で伝えるのは難しい。このような「教えない教育」を経て、子どもたちはいつ何がおきても柔軟に対応できるようになる。
 ムラブリの紹介を経て、二文字屋さんはこう話す。遊びを通じて社会化されていく、というのは大人の目線で一面的だ。子どもたちは遊びたいと思って、自律的かつ創造的に遊びに興じている。社会化は目的でなく結果でしかない。つまり、遊び=学びではないのである。
 ムラブリでは、子どもたちは学ばされているわけではない。これは、アクティブラーニングを先取りしているものかもしれないと二文字屋さんは指摘する。ここで筆者の印象に残ったのは、二文字屋さんが「アクティブラーニングは教える側に求められていることで、子供目線の見方ではない」と話されていたことだ。ムラブリも近年は脱狩猟採集民化し、政府主導の小学校が作られたりもしているが、それでも学校に行くか行かないかも子供に委ねられているし、学校を自由にサボる子どもたちも普通に存在している。このような自由な考えを大学の先生がニコニコと肯定的に話されている姿に、筆者はとても感銘を受けた。

 2つのセクションを終えた後、司会の小西さんから、変人類学とフィールドワークの関連についてのお話があった。今の社会は子どもたちを必然性のなかに押し込めてしまう。すると、目的意識から脱することができなくなる。それに対して、必然性の世界から偶発性の世界に飛び出していくことは重要である。そのために必要な精神がフィールドワーク精神であり、だから変人教育はフィールドワークと手を携える必要がある。このような主旨のお話であった。
 筆者も少しお話をさせて頂き、ゲーム研究の現在についての話題を提供した。「遊び方」は常に新しいものが作られ続けており、それを研究することは重要である。デジタルゲームのジャンルでどのような遊びがあるかを調査するのも、ゲーム世界のフィールドワークのようなものと言えるかもしれない。ゲームの目標から逸脱するような遊び方「カウンタープレイ」といった概念も登場してきている。デジタルゲームは単純にボタンを押せば楽しいというものではなく、変わったゲームプレイをも模索されるような深みのあるものになっているのだ。そんなような話をした。

 その後、参加者全員での意見交換の時間となった。
 ここで面白かったのは、今の若い人が「遊び」から少し乖離しているのではないかという話題だった。例えば会場にきていた学生さんが、子どものころから習い事としてサッカーをしていたが、「遊んだ」という記憶がないと発言した。つまりそれは「サッカー」をしているのであって、遊んでいるという感覚がない。勝つことや練習に明け暮れて、それ自体がなぜか目的化してしまっているようだ。考えてみると、日本語の「試合を戦う」を英語に訳すと、play the gameと訳せる。これは逆にもう一度訳すと「ゲームを遊ぶ」となる。このplayはplay the pianoとか音楽にも使えるし、play the roleと演技にも使える。そこらへんの感覚がごっそり抜け落ちているのかもしれないと、なかなか難しい問題を見せつけられた気分だった(英語でのplayは色々状況によって意味が変わるので、簡単に遊ぶと訳すのはあまりよろしくないのだが、一応こういう議論もできるくらいの感じに捉えて欲しいと思って話してみた)。
 言葉に関しては、もうひとつ面白い話題があった。「アクティブラーニング」が海外では、「教える」というスタイルでは捉えられていないということである。「ティーチング」という教える側目線の言葉に対して、学生が自主的に学ぶことをいうのが「ラーニング」である。だから「アクティブラーニング」は学生目線の概念なのである。それなのに日本では、教員がどう実践するかにばかり着目されて議論されてしまう。この話を聞いて、僕はサイエンスコミュニケーションのことを思い出した。サイエンスコミュニケーションも、本来海外で始まったときには双方向の理解を目的したものだったのに、日本では、科学の普及のための手段のように思われてしまっている。

 このような議論を経て、最後に椎野さんから締めの言葉があった。椎野さんは「フィールドワークはアクティブラーニング」と仰っていて、なるほど最後に今回の主旨がとても納得がいった。
 ちなみに、今回は会場も工夫されており、中央、登壇者の前に、地面に座れるブルーシートのスペースがあった。子供連れのお母さんがお子さんと一緒にそこに座っていらっしゃったりして、誰でも参加できる会が実践されていたことは非常に重要に感じた。学び/遊びの場は、若い学生や先生だけでなく、どんな小さな子供にも、またどんなお年寄りにも開かれているべきなのだ。

神経科学 at 東京大学 |

14巻『フィールド写真術』分担執筆者

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